前回に引き続き、今日は回顧録の本編(前編)をお届けいたします。
身支度
17時きっかり、わたくしは身支度を始めました。最低限のマナーとして、体臭や体毛などで不快感を与えてはならぬと、わたくしは自分の身体を清めながら、神妙に全身を、本当にあらゆる穴の中まで、くまなく検査しました。「不快感を与えてはならぬ。」建前ではそう思っていても、本当のところは「女として幻滅されたくない」という保身でございました。会ったこともない、お金の上でなければ会うことも無かった相手にすら、このような自己顕示がはたらくのも、ある種の若さであったと今となっては思えるものです。施術師に、あわよくば欲情して欲しかったのです、わたくしは。風俗に行く世の男性方も、大抵はこのような気持ちなのでしょうか。
大袈裟な身体検査を終え、いつもより赤く化粧をし、髪を梳かし、わたくしはいよいよ支度を終えました。
会合
予約時間の10分前。歓楽街のホテルの一室にわたくしはおりました。小さな部屋に似合わぬ豪奢な革張り椅子に腰掛け、どうにか身体をこの場に馴染ませたいと、やたらと脚を組み替えたり、顎に手を当ててみたりして相応しい格好を探してみます。その馬鹿らしい気取りが、その時のわたくしには非常に重要なことのように思われたのです。世の皆様も、こんな風に待っているのでしょうか。
19時になった瞬間、ドアのベルが鳴りました。その音に心臓をギュッと一握りされ、息が止まります。いよいよその時が来た。わたくしは大きく息を吸い直し、ドアを開けました。
施術師Wの第一印象は、物腰柔らかな好青年でした。30代そこらに見える彼の黒い短髪は根本から刈り上げられ、身体は贅肉のたるみを持たず、かといって背筋を不自然に伸ばすこともない、まさに整体師や鍼灸師の出立ちそのものです。自然光や蛍光灯の元にいる人種です。わたくしはその場がラブホテルであることを忘れ、なんだか自分が変な思い違いをしてここに来てしまったのでは無いかと、一瞬にして恥ずかしくなりました。
問診
Wは儀礼的な挨拶をした後、先ほどまでわたくしが座っていた椅子に座り、そしてわたくしをベッドに座るよう促しました。
「まずは、オナンさんのお悩みから教えてください。」
「悩み……」
「はい、ご予約時に簡単なお悩みを送ってくださっていたと思いますが、その詳細を。なんでも大丈夫ですよ。例えば『身体の気になる場所』だったり『イキ方が分からない』などでも」
わたくしは本当に困りました。はじめに言ったように、わたくしは「悩み」と呼べるほど大層な志は持っておりません、ただただ気持ちよくなりたい為だけにここに来たのですから。ただ快楽を得に来ただけでは不味かったのかもしれぬと思い、わたくしは焦りを言いにくさに変換しながら答えました。
「ポルチオとか、Gスポットとかがよく分からなくて、中でイッたことがほとんど無いんです。」
物は言いようとはよく言ったものです。自信のない声色で、これでわたくしも悩める乙女の1人ですと言いたげな後ろめたさを背負ってみると、なるほど自分は確かに悩んでいたのかもしれないと思えてくるのです。しかしWは、そんな脚色など全く意に介さず、質問を続けました。
「クリトリスではイケますか?」
「あ、はい。自分でするときは大抵がクリトリスで、そちらでイク分にはもう慣れてしまっているというか……」
なんだか言わなくて良いことまで言ってしまったような気がしておりましたが、Wはわたくしの回答をそのまま問診票に書きこみます。彼らもカルテを持つのでしょう。ふむ、と少しの間を置いて、Wはわたくしに向き直って言いました。
「オナンさんのような方、実は多いんですよ。ええ、クリトリスではイケるけど、中ではイケないという方です。そして、僕がみてきたそういうお客様のほとんどが、施術してみると、実際はクリトリスでもイケていません。」
「えっ?」
わたくしに限ってそんなはずはない。そう思っていてもその可能性の恐ろしさに、言葉を継ぐことができません。Wは手持ちのカバンからラミネートされたA4の資料を取り出し、わたくしに手渡しました。「資料」というより「紙芝居」といった方適切かもしれません。そこには山頂を目指す女性と、その山のてっぺんには天使が飛んでいる、いらす○やの絵が並べられておりました。

絵を指しながら、Wは説明を始めました。
「そもそも『イク』というのは登山のようなものなんです。一合目、三合目、八合目……と、快感を徐々に徐々に絶頂を目指して登りつめていく必要があります。そうして最後に、その山頂から飛び降りてまっさらな状態になる。これが『イク』ということです。」
わたくしは自身のはしたなさとWの清潔感とのギャップに些か居心地の悪さを感じておりましたが、そんな不安はあまりにも瑣末でございました。
快感と興奮によって自分を制御できなくなるオーガズムの極地をこんな風に解説されるなんて思ってもみませんでしたし、彼のこのセンスは一体どこから来るのかというのも謎でしたし、またそれを「女性のオーガズム」を体験しようがないはずの男性によって解説されるというのも、なんだか妙な気分でございました。
かろうじてはっきりと分かったことは、この方は施術師なのであって、わたくしは患者なのだということ。そしてもちろん「こいつ大丈夫か」と別の意味で不安に思わないわけもございませんでした。Wは続けます。
「決してオナンさんを否定したいわけではないのですが、お話を伺っている感じだと、オナンさんの場合も、本当の意味でイケていない可能性があります。もちろんオナンさんが気になっている『中で気持ちよくなること』も目指しますが、一応クリトリスの方もみてみましょう。そのために、今日これから施術をしていく中で、約束してほしいことがあります。施術中、『呼吸』を絶対にやめないでください。」
「呼吸、ですか」
「はい。もちろん、ご自身の気持ちよくなりたいという意志は大前提として大切なのですが、その先でイケる方とイケない方の大きな違いは『呼吸』にあります。どんなに気持ちよくなっても、絶対に呼吸をやめないでください。」
“どんなに気持ちよくなっても”――そうなるのが通例なのだ。と、Wの言葉には含まれておりました。わたくしは一気に期待を膨らませ、そして呼吸をし続けることなど簡単なことだとタカを括り、「わかりました」と物分かりよく了承しました。
その後、身体の触れて良い部分、決して触ってはならない場所など施術中の取り決めを細かく行い、同意書にサインをいたしました。施術内容がデリケートそのものだけに、これまでもトラブルはあったのでしょう。その細やかな取り決めが、互いに仕事としての領域を侵さない事を誓わせるのでした。
